【独自感想】『私が彼を殺した』東野 圭吾

小説

今回は小説『私が彼を殺した』東野 圭吾(著)のご紹介!加賀恭一郎シリーズの5作目となります。この作品は以前紹介した『どちらかが彼女を殺した』に通ずる作品のようです。

どのようなストーリー展開になっていくのかとても気になる作品です。読者参加型の作品のため、楽しみ方も人ぞれぞれとなることでしょう。

書籍の情報を以下にまとめます▼

INFO
タイトル:『私が彼を殺した』
著者:東野 圭吾
出版社:株式会社 講談社
発売日:2002年3月
メモ:人気の加賀恭一郎シリーズの5作目

あらすじ

男の庭先で、裏切られた女性が自殺した。すでに別の女性と婚約していた男は死の事実を隠して結婚式へ向かい、最中に殺害される。動機のある容疑者は三人ーーーーーー婚約相手の兄、恋人を盗られた男、元交際相手の女。推理の鍵は、死因の毒入りカプセルが何処から現れたか。あなたは加賀刑事が導く真実に迫れるか。

『私が彼を殺した』裏表紙より

読書感想

甘いものが食べられなかった子供は将来、虫歯になる

人間は子供の頃に経験したことに基づいて大人になっていくと言われている。また、子供の頃に実現できなかったことを、その反動で大人になってから叶える人も多い。例えば、一人っ子だった人は大人になり家庭を築いた際に、子供をたくさん作りたいと考えることがある。このように、子供の頃の経験は、良くも悪くも将来の行動や価値観に大きな影響を与える。

この視点から考えると、子育ては非常に重要であり、軽視することはできない。子供の頃の経験がその人の将来を決定づける要素となるため、親としての責任は大きい。子供に健全な環境を提供し、豊かな経験をさせることが、その子の将来にとって非常に重要である。

しかし、過度な期待やプレッシャーをかけることは避けるべきである。子供が自由に成長し、自分の興味や関心を見つけることができる環境を整えることが大切である。子供の頃の経験が将来に与える影響を理解しつつも、親としては子供の自主性を尊重し、過度な干渉を避けることが求められる。

骨と灰になった姿

自分という存在を自分自身が感じられるのは、息を引き取る寸前までである。私たちは生きている限り、自分の手や足、顔を確認し、自分自身を認識することができる。しかし、死後に残された方々にとっては、火葬され骨と灰となった姿も確認することができる。

骨を見て、「あの人らしい」と感じる人は少なく、生前どんな体型であったとしても、死後の骨と灰は似たようなものになる。これは、人間がいかに儚い存在であるかを象徴している。私たちは、骨という共通の構造の上に、多種多様な肉や皮膚が覆い被さり、それぞれの個性や特徴を形作っているに過ぎない。

このことは、私たちが生きている間に感じる自己の独自性や存在感が、実は非常に一時的で脆弱なものであることを示している。同時に、人間の本質は見た目や形に縛られるものではなく、もっと深いところに存在するということを教えてくれる。

あなたは伝えられる生き物か?

言葉を使えることによって、自分の考えを相手に伝えることができる。この最大のメリットは、言葉によって自分の意見を納得させることができる点である。この世の中にはさまざまなルールが存在する一方で、自分たちで考えて行動しなければならない状況が多く存在する。すなわち、正解のない行動を取り続ける必要がある。正解がないのだから、当然ながらさまざまな意見が存在する。その中で、自分が考えた意見に賛成してもらうための術が言葉である。

言葉を巧みに操ることで、自分の意見を他者に理解させ、共感を得ることができる。これは、個人の行動を支える大きな力となる。言葉を通じてコミュニケーションを取ることで、他者との協力や意見交換が可能となり、より良い解決策やアイデアを生み出すことができる。

しかし、言葉をうまく使いこなせないと、何の取り柄もない生き物になってしまう可能性がある。言葉の力を軽視すると、誤解や対立が生じやすくなり、円滑なコミュニケーションが難しくなる。結果として、意見を伝えることができず、孤立する恐れがある。

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