【独自感想】『護られなかった者たちへ』中山 七里

小説

今回は小説『護られなかった者たちへ』中山 七里(著)のご紹介!
身体を拘束された後、餓死させられるという残虐な殺人事件が発生。殺害方法の中でも餓死による殺害は、じわじわと被害者に苦しみを与えるという点において、最も残虐であり強烈な怨恨を感じさせられます。

ストーリー展開も気になるポイントですが、犯人の深層心理に注目しながら読み進めました。映画化もされている作品なので、小説と映画、両方で楽しむことができます。

書籍の情報を以下にまとめます▼

INFO
タイトル:『護られなかった者たちへ』
著者:中山 七里
出版社:株式会社 宝島社
発売日:2021年8月
メモ:映画化もされている

あらすじ

仙台市で他殺体が発見された。拘束したまま飢え苦しませ、餓死させるという残酷な殺害方法から、担当刑事の笘篠は怨恨の線で捜査する。しかし被害者は人から恨まれるとは思えない聖人のような人物で、容疑者は一向に浮かばずにいた。捜査が暗礁に乗り上げるなか、二体目の餓死死体が発見される。一方、事件の数日前に出所した模範囚の利根は、過去に起きたある出来事の関係者を探っていたーーーーーーー。

『護られなかった者たちへ』裏表紙より

読書感想

存在しないことの証明は過酷

論理的な証明によって、さまざまな事実が明らかにされてきた中で、「宇宙人の存在」や「UFO目撃」といった議論は、多くの人々、特にSF愛好者の心を揺さぶってきた。宇宙人やUFOの存在についても、その実在を明確に示す証拠があれば、それは論理的な証明として成り立ち、紛れもない事実として認識されるだろう。

存在を証明するという行為は、好奇心を満たし、未来への希望を膨らませるものとして、案外シンプルで人々に受け入れられやすい。しかし逆に、存在しないことを証明するのは極めて難しく、高度な論理的説明と受け手の理解力が要求される。また、存在しないことを証明する過程は、好奇心をかき立てるというよりも、それを打ち砕く可能性があり、世間から望まれにくいものである。

それでも証明する側にとっては、誤解を正し真実を明らかにするために、どうしても成し遂げたい証明であることが多い。存在しないことを証明する難しさと意義は、現実と幻想の線引きを明確にするために重要な役割を果たしている。

暴走する真面目人間

真面目な人間というのは、争いやハプニングを嫌う。なるべく自分の想像の範囲以内の出来事が起きることを好む。時として焦ることを恐れ、物事に対しては十分な準備を行う。何かを実行する時には大型のタスクは完了している。なぜなら起こりうること、実施すべきことは全て準備の段階で対策済みであり、実際に行動に移すタイミングでは用意してきたことを淡々とこなすだけで事足りてしまうからだ。

しかし、そういった真面目な人にとって予想だにしなかった出来事に直面した時や事前の準備が全く役に立たなかった時などは最大のピンチと言える。いわば真面目な人たちは臨機応変に立ち回るスキルを持っていないとも言える。

世の中、完璧な人間なんて存在しないため、真面目な人が臨機応変に立ち回れないことはそんな大きな問題ではない。しかし当の本人からしたらエマージェンシーコールが鳴り響く。そのような時、真面目な人は途端に制御が効かなくなり暴走を始めるマシーンの如く狂ってしまう。周りで見ている人たちもその暴走を止めることはできず、ただ、ガス欠で止まるのをじっと待つしかできない。

クラス対抗リレーが盛り上がらないわけ

難易度の高い物事に挑むときの方法として、複雑な物事を細分化するというものがある。細分化することによって複雑に絡み合っていたものもシンプルになり行動に移しやすくなる。巨大な物体を細分化することによってタスクも莫大な量になる。とてもではないが莫大な量のタスクを1人の力でこなしていくことはできない。このような状況になった時にチームの必要性を感じ始める。

さて、細分化したタスクをどういった人材に割り当てていくのかがポイントとなる。タスクが多ければ多いほど、関わる人数も増えていく。しかし、多い課題に対して多数の人員を割り当てればいいということではない。むしろ少数精鋭なるチームの方がでかいヤマはさばけたりする。

人数が多い弊害としてコミュニケーションの欠乏がある。マンモス中学時代、卒業するまで顔と名前が一致しない生徒がたくさんいた。こんなことではチーム運営は成り立たないということだ。ましてや自分がチームリーダーを務める場合、構成員は少ないことに越したことはない。リーダーの目の届かない範囲はチームとは言わないと思った方がいい。

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