今回はノンフィクション作品『キツネ目』岩瀬 達哉(著)のご紹介。
本作品は今から40年ほど前に起きた「グリコ・森永事件」を題材とし、未解決となった本事件の真相に迫る内容となっています。
「キツネ目」というのは表紙にも描かれている似顔絵の人物から由来され、「キツネ目の男」と呼ばれていました。「グリコ・森永事件」は日本中を巻き込んだ事件だったのにも関わらず、犯人逮捕に至らなかった(2000年2月に時効が成立)として、今でも語り継がれています。
書籍の情報を以下にまとめます▼
INFO
タイトル:『キツネ目』
著者:岩瀬 達哉
出版社:株式会社 講談社
発売日:2021年3月
メモ:2000年2月13日をもって関係する事件の時効が全て成立
書籍情報
足かけ12年の圧倒的な取材。小説を超えた、「真実」だけが持つ迫力
拉致された青年、被害企業の経営陣らに刻まれた犯人の姿と声
「犯罪はスポートや」『キツネ目』帯より
読書感想
完璧主義者の大胆なミス
人は誰しもミスをする生き物であるが、ミスが極端に少ない人も存在する。彼らは物事を冷静に捉える能力、緻密な計画を立てる能力、そして計画を正確に実行する能力に長けており、その結果、他の人と比べてミスを軽減できる。仮にミスをしたとしても、そのミスは軽微であり、すぐにリカバリーが可能であることが多い。周囲からは「完璧主義者」や「非の打ち所がない人」として称賛されることがある。
しかし、そんな完璧な人がもし大きなミスを犯した場合、どうなるだろうか。周りが気づくような明らかなミスであっても、その人の普段の完璧さゆえに、「それさえも作戦では?」と疑念が生まれることがある。これにより、周囲は通常とは異なる動揺を感じることになる。
通常、誰かがミスを犯した場合、他者が助けようとするのが一般的な反応である。しかし、そのミスが計画的なものであれば、手を貸すべきではないかもしれない。もし、そのミスが緊迫した場面で発生し、瞬時の判断が求められる状況であったなら、他者が「作戦かもしれない」という疑念を抱いてためらうことは、結果に大きな影響を与える可能性がある。完璧な人が犯すミスは、時に周囲に予期せぬ混乱や迷いをもたらすものであり、それが大きなリスクにつながることもあるだろう。
大きな組織になるほど臆病者が多くなる
事業を自分一人で回していくことは、非常に困難なことである。作業量が膨大であることはもちろんだが、すべての責任を一人で負わなければならないという点が大きな負担となる。多くの人は「責任」と聞くと、問題が発生した際に誰がその責任を取るかというネガティブな側面を思い浮かべる。このため、責任を避けるために自らの行動に制限をかけてしまうことも少なくない。
しかし、一方で、責任を理解しつつも、それに囚われず、むしろポジティブな部分に目を向けることで行動力を高めている人々もいる。彼らは失敗を恐れず、それを次のステップへ進むための糧と捉えていることが多い。また、一人で事業を進めることには、大きなメリットも存在する。それは、他者からの影響を受けることなく、自分のペースで物事を進められるという点である。
大きな組織を考えた時、そこには多くの人が関わっており、責任が分散されるように見えるが、実際にはそうではない。組織内では別の意味での責任が存在し、多様な意見や考え方が交錯することで、むしろ窮屈に感じることがある。一方で、一人で事業を進める場合、自分自身の判断で全てを進めることができ、清々しささえも感じることがあるだろう。責任を一人で抱えることは大変ではあるが、それと引き換えに得られる自由と自己決定権は、非常に大きなメリットとなる。
人間は無かったことにする天才
地震、津波、台風といった自然災害は、私たちの生活に甚大な被害をもたらす。しかし、自然の力に太刀打ちできない私たちは、これらの災害が発生しても、それを防ぐことはできず、受け入れて対処するしかない。自然災害が起きないように努力することは不可能であり、私たちは常に「起きてからどうするか」に焦点を当てるしかないのだ。それでも、人類はこれまで何度も壊滅的な被害から復興を遂げてきた。
復興した地域は、他者から見れば過去の被害を思い出させる痕跡が消え去り、まるで何事もなかったかのように見えることもある。荒廃した土地が整備され、商業施設や住宅が建設されることで、災害の痕跡が消え去る。この現象は、まるで被害者が自ら証拠を隠滅しているかのように見え、違和感を覚えることもある。しかし、自然を相手にするとはこういうことかもしれない。
昔、人々は雨が降らない土地で雨乞いをして、祈ることでしか自然に対処する術がなかった。昔から人間は、自然に対して具体的な対策を講じることができず、祈りや願いに頼るしかなかったのだ。現代においても、科学技術が進歩しているとはいえ、自然災害に対して完全な予防策は存在せず、私たちは復興し続けることしかできない。自然と共に生きるということは、こうした受け入れと再生の繰り返しなのかもしれない。
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