【独自感想】『法廷遊戯』五十嵐 律人

小説

今回は小説『法廷遊戯』五十嵐 律人(著)のご紹介!
遊戯」とは、楽しんで遊ぶことの意味。

「法廷遊戯」は厳正なる審理および裁判を行う法廷において、相反する言葉(遊戯)を重ね合わせたタイトルとなっています。このタイトルの意味がどうストーリーで明かされていくのがとても気になる作品です。

書籍の情報を以下にまとめます▼

INFO
タイトル:『法廷遊戯』
著者:五十嵐 律人
出版社:株式会社 講談社
発売日:2023年4月14日(第1刷発行)
メモ:著者自身も弁護士

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あらすじ

法律家を目指す学生・久我清義と織本美鈴。ある日を境に、二人の「過去」を知る何者かによる嫌がらせが相次ぐ。これは復讐なのか。秀才の同級生・結城馨の助言で事件は解決するかと思いきや、予想外の「死」が訪れるーーーーー。ミステリー界の話題をさらった、第62回メフィスト賞受賞作。

『法廷遊戯』裏表紙より

読書感想

本当に理解するためには

一人暮らしを始めると痛感することがある。それは絶望的とも言える家事の大変さだ。そこで初めて母親の偉大さを知る人もいるのではないか。しかし、母親が毎日のように家事をこなしているのは今に始まった事ではない。

自分がオギャーと生まれた時にはすでに母親は家事をこなしていた。そこから幼稚園、小学校、中学校と進学していくわけだが、母親の家事は止まることなく稼働し続ける。父親の仕事に対しても同じことが言えるかもしれない。

毎朝、当たり前のように仕事に行き、夜に帰ってくる。何十年にもわたってそうしている姿を私たちは子供の頃から見てきたはずなのに、その大変さをあまり理解してこなかった

それらの大変さは、自分が一人暮らしを始めたタイミングや、会社に入社したタイミングでどっと押し寄せてくる。人間の本当の理解とは、自らも同じ経験をしたことでしか得られないのかもしれない。いくら相手のことを思ってもそれは想像の世界に過ぎず、想像力豊かな人であっても到底同じレベルで語ることはできない。

それだけ相手のことを理解するのは困難なことである。大切な人から悩みごとの相談を受けた時、果たしてどう振る舞えばいいのだろうか。

仕返しの仕方によって、世の中は変わる

数年前にこんな言葉が流行った。「やられたらやり返す、倍返しだ!」言葉の意味を素直に捉えるなら、相手にされた嫌なことに対して「その倍」の嫌なことをしてやり返すということだ。一種の決め台詞として流行った言葉であるが、そんなことがまかり通る世の中になってしまったらどんでもないことになる。

人間は感情で生きている。楽しい、嬉しいなどのプラスな感情と、悲しい、悔しいなどのマイナスな感情がある。相手に何か嫌なことをされて悔しい思いをした時、やり返してやりたい気持ちになる。その時人は、自分がされたことよりも少しひどいことをし返したい気持ちになる

例えば、隣人の騒音に腹が立って、相手の車を傷つけてしまう人がいる。騒音に悩まされるよりも車を傷つけられる方が金銭的な被害からしても損害がでかい。

「やられたらやり返す、倍返しだ!」というスタンスは、この例を大幅に超えてしまう。ご近所間のトラブルが殺人事件に発展してしまうことが一例だ。このような世の中になってしまうと、平穏な世の中は崩壊してしまう。

また、倍返しにも限度がある。今言ったように、殺人を犯してしまうことはあってはならないことなのだが、殺人以上の仕返しは思い浮かばない。よってこの世の中の均衡を保つためには、仕返しをする側の寛容さが必要となってくる

例えば、顔面を殴られたのであれば、同じように顔面を殴って仕返しをする。100万円盗まれたのであれば、100万円を盗んで仕返しをする。すると、当たり前ではあるが、これはただの100万円同士の取り替えっこになってしまう。この状況に元々100万円を盗まれた側の人間が納得できるであろうか。100万円の取り替えっこでは、100万円を盗まれた時の精神的ダメージは含まれていない。元の被害者からすると到底納得がいくことではないだろう。

だからこそ、司法が存在するのだ。「やられたらやり返す」のやり返すは司法に委ねる。被害者の精神的ダメージは定量的に判断することができない。そこを自分自身で判断しようとすると、誤った結果を導きかねない。定量的に判断ができない部分は、第三者によって決定される。

「どうぞ座ってください」と「座りますか?」

何事も決めつけて判断する人は人から嫌われる傾向がある。その考えがどんなに論理的であろうとも、それはあくまでもあなたの考えであって私は違うのだと言いたくなってしまう。いくら当たり前なことであっても人の数だけ考え方がある

人から嫌われるほどではないが、良かれと思ってやったことに対して余計なことをするなと言われたことがある人もいるのではないか。「大きなお世話」や「お節介」と評される人がまさにそうであるが、そういう人たちは共通して自分の中にある当たり前を信じ切っている節がある。

私たちも知らないうちに世の中の当たり前とされている波にさらわれて行動をとっていることがある。電車にお年寄りが乗車してきた際に「どうぞ座ってください」と席を譲ること。「どうぞ座ってください」という言葉は、座ることを前提とした言葉である。しかし、お年寄りにだって都合がある。例えば次の駅で降りるから座るよりも立っている方が楽という考え方だ。

そこでお年寄り=座席に座る人という当たり前を押し付ける行為は、「大きなお世話」に分類されてもおかしくはない。正しくは、「座りますか?」と質問をする。席を立って譲ったのにも関わらず断られ、気まずくなって座り直せない人を多々見たことがある。

当たり前を振り返ってみると、ただの勘違いだったことがある。なんで人々は平気な顔をしてそれに従っているのだろうかと不思議に思う。ぜひ試してみてほしい、電車でお年寄りに「座りますか?」と聞いてみることを。想像以上に「大丈夫です」と言われる。

まとめ

今回は小説『法廷遊戯』五十嵐 律人(著)のご紹介でした。法廷ではさまざまな真実が明らかになりますが、刑事事件においてその有罪判決の確率は、99.9%と言われています。それだけ決まり切った状態で始まる裁判ですが、故にそれが覆ると大きな話題となります。

小説『法廷遊戯』ではそんな法廷を嘲笑うかのような真実が待ち構えています。法律の仕組みにも少し詳しくなれるかもしれません。

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