【独自感想】『仮面山荘殺人事件』東野 圭吾

小説

今回は小説『仮面山荘殺人事件』東野 圭吾(著)のご紹介!
湖畔にある別荘に集まった8人の男女に現実離れした事件が襲う。複数の不可解な出来事に対して冷静に対処することは困難。もし自分がこの物語の登場人物だったとしたら。。。。そんなことを想像しながら読み進めました。

書籍の情報を以下にまとめます▼

INFO
タイトル:『仮面山荘殺人事件』
著者:東野 圭吾
出版社:株式会社 講談社
発売日:1995年3月
メモ:一つの舞台で強盗事件と殺人事件が発生

あらすじ

湖畔に佇む別荘に8人の男女が集まった。車で転落死した婚約者を偲ぶ会だったはずが、そこに逃亡中の銀行強盗が侵入する。逃げられず、助けも呼べない隔離環境で、さらに殺人事件が発生。現場の状況から銀行強盗が犯人ではありえない。一同は疑心暗鬼を深め、犯人を探し始める。東野圭吾、驚愕の初期傑作!

『仮面山荘殺人事件』裏表紙より

読書感想

人間が人間になるまで

今の世の中で人間は最も頭のいい生き物と言われている。しかし、時として私たち人間であっても自分の気持ちを抑えることができずに行動をとってしまうことがある。身近なことで言うならば、食欲や睡眠欲、性欲などがある。

これらの欲望は人間という言葉よりも、動物的な感覚として私たちに備わっているものだ。本能によって欲望が牛耳られているとするならば、欲望によって犯してしまったこともしょうがないことと考えることもできる。

なぜなら、やっていいこと、やってはいけないことの線引きは人間として決めたことだからだ。ただ、欲望に素直な人に対して偏見的な目を向けてしまうのも事実である。この世界では自分の感情をコントロールすることが人間としての価値を決定づけるところがあるからだ。

人間が他の動物と比べ、最も頭のいい生き物と言われる要因はこの点にある。本能や欲望を自らの意思でコントロールする術を身につけたからこそ人間の世界が発展してきたとも言える。つまり、私たちの中には動物的な感覚がなくなりつつあるということだ。

どこかで起きていたこと

世界に目を向けると現代においても悲惨な事件や事故が多発している。私たちが住んでいる日本でも時折、世間を震撼させる出来事が起きたりしている。そのような状況において、私たちが幸せな感情を抱くことができるのは、それら出来事が自分の身近に起きていないからだろう。

同じ地球内で起きている出来事なのに、実際に起きているという実感すら薄らいでいる。平和ボケをしている私たちは限りなく身近で事件が発生した際に思考がフリーズしてしまう。現実か非現実かの区別がつかなくなってしまうのだ。

事件の当事者に身内が含まれている場合、さらなる思考の停止状態に陥る。物事の客観性は失われ、狭く閉じられた世界観でしか周りを見渡すことができない。世間が過ごす時間と自らが過ごす時間に差異が生まれ、常識的な考えを持てなくなってしまう。

一度そのような状態に陥ってしまうとなかなか抜け出すことはできない。世間とのギャップに苦しみ、気がついた頃には孤立してしまっている。世間の目はだいぶ前から自分を見ているのに。

神様になりたかった主人公

運命に身を捧げる犯罪。いつ、どのタイミングで、どのようにして成し遂げられるか。私にもわからない。ただその種を蒔いておくだけ。運命のイタズラで芽が出ないかもしれない。運命のイタズラで目の前で芽が出るかもしれない。

ハラハラ、ドキドキ。起こっても嬉しい、ちょっと不安。起こらなくても安心、ちょっと残念。答え合わせは突然訪れる。その瞬間を想像するだけで体の芯から熱を感じる。果たして、自分が蒔いた種が芽を出して花を咲かせたのか。それすらも想像の世界である。

世界を俯瞰して見る能力を手に入れた。渋谷の交差点を写している定点カメラのようなもの。画面の右上にはLIVEの文字がある。雨が降った。地面が濡れてしばらく経つと、柔らかそうな地面からヌッと緑色をした生命が現れた。心臓が高鳴る。

ゴーッという音と共に何かが迫ってきた。LIVE画面に一瞬黒い塊が過ぎ去っていく。柔らかそうな地面にタイヤの跡が映る。芽が消えていた。心臓はまだ高鳴っている。答えはまだわからない。やっぱり神様にはなれなかった。

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