【独自感想】『希望の糸』東野 圭吾

小説

今回は小説『希望の糸』東野 圭吾(著)のご紹介!加賀恭一郎シリーズの11作目となります。
ミステリーとしての謎解きもさることながら、「家族」について考えさせられる作品です。
様々な家庭環境、そして、夫婦関係、読者によって感じ取るポイントも変わってくることでしょう。

書籍の情報を以下にまとめます▼

INFO
タイトル:『希望の糸』
著者:東野 圭吾
出版社:株式会社 講談社
発売日:2022年7月
メモ:人気の加賀恭一郎シリーズの11作目

あらすじ

小さな喫茶店を営む女性が殺された。加賀と松宮が捜査しても被害者に関する手がかりは善人というだけ。彼女の不可解な行動を調べると、ある少女の存在が浮上する。一方、金沢で一人の男性が息を引き取ろうとしていた。彼の遺言書には意外な人物の名前があった。彼女や彼が追い求めた希望とは何だったのか。

『希望の糸』裏表紙より

読書感想

出会いと別れ、そして絶望

人との出会いと別れは、多くの場合、無意識のうちにやってくる。突然の出会いに心が躍ることもあれば、予期せぬ別れに胸が締め付けられることもある。突然の別れが続くと、人は新たな出会いを求めたくなるが、これまで意識的に人と出会ってこなかったため、その方法がわからず迷走することになる。出会い方を知らないという状況に直面すると、次第に「孤独」という言葉が心に浮かび上がってくる。

時間が無情に過ぎていく中で、気がつけば自分も完全なる大人の年齢に達している。古い友人たちは家庭を持ち、子供を授かっている姿を見ると、焦りが一層強まる。この焦りは、これまで考えたこともなかった10年後や20年後といった長期的な将来の不安を呼び起こし、次第に絶望感へと変わっていく。

最初は単なる新たな出会いを求めていただけであったが、時間と共にその思いは積み重なり、孤独感や焦り、そして最終的には絶望へと繋がってしまう。出会いを求めるという一見ささやかな欲求が、思いもよらぬ大きな感情の渦を巻き起こすことがあるのである。

「可愛い子には旅をさせよ」

「可愛い子には旅をさせよ」という言葉は、親にとって大切な子供こそ、あえて旅に出させ、様々な経験を積ませるべきだという教えである。これは、親としては片時も離れたくないほど愛しい子供であっても、遠くへ旅立たせることで、結果的にその成長が促進されるという意味を含んでいる。

親の立場からすれば、子供を一人で旅に出させることは大きな心配を伴うものである。何が起こるか分からない未知の世界に送り出すことは、不安でたまらないだろう。しかし、その不安を乗り越えて子供に自由な経験を与えることで、子供は自立心を養い、強く成長することができる。

一方、子供の立場から見ると、旅に対する感情は様々である。旅に向かうワクワク感を抱く子もいれば、未知の世界に対する不安から一歩を踏み出せない子もいるだろう。いずれの場合も、親の期待や愛情が子供に伝わることで、彼らは困難を乗り越える力を得ることができる。

「可愛い子には旅をさせよ」という言葉には、もう一つ重要な意味が込められている。それは、大切な人であれば、たとえ物理的に離れていても、心がつながっていれば困難を乗り越えられるという教えである。心がつながっているというのは抽象的な表現ではあるが、このつながりこそが、人生の様々な困難に対して強い支えとなる。

感情の解放

自我が強い人は、しばしば嫌われる傾向にある。彼らは我が強く、わがままという印象を与えることが多い。一方で、自分の考えを内面に押さえ込み、他人の意見に賛同する人は、外から見ると従順で「いい子」に映るかもしれない。しかし、内に押さえ込んだ自我は無限に溜め込むことはできず、いずれどこかで発散する必要がある。

問題は、自分の考えを溜め込む人ほど、その発散が苦手であるという点である。彼らは感情の閾値を持たず、気持ちが溢れる警告音が存在しない。そのため、何の前触れもなく感情が爆発し、周囲を驚かせることになる。「こんなにも我慢してきたのに」と感じるのは自分自身だけであり、他人からの共感を得ることは難しい。この状況を避けるために、今度は感情を溜め込まず、思った時に相手に伝えようとする。しかし、その場の感情に流されてしまう自分を想像すると、それもまた嫌になる。

では、人間はどのようにして自分の感情を解放すればよいのだろうか。適切な方法を見つけることが、感情のバランスを保つ鍵である。時には、土砂降りの雨の中で、濡れることを気にせず、両手を天に掲げて叫ぶような大胆な解放が必要かもしれない。それは象徴的な行為であり、自分の感情を自然に任せて表現することで、内に溜まったストレスや圧力を解消する一つの手段である。

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