今回は小説『ロートレック荘事件』筒井 康隆(著)のご紹介!
ロートレックとは、19世紀末に人気を博したフランスの画家で、有名な作品として『ムーラン・ルージュのラ・グーリュ』などがあります。以前日本でも展覧会が開催されており、彼の作品を実際に観たという人も多いのではないでしょうか?
この作品を読んだ後にロートレックという人物について調べてみると、作中の描写とリンクする部分もあり、より作品を楽しむことができます。
書籍の情報を以下にまとめます▼
INFO
タイトル:『ロートレック荘事件』
著者:筒井 康隆
出版社:株式会社 新潮社
発売日:1995年2月
メモ:本編にロートレックの作品が紹介されている
あらすじ
夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが・・・・・・・。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、次々に美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。
『ロートレック荘事件』裏表紙より
読書感想
損得勘定に振り回される
人間というのは常に損得勘定で物事を考える。それは何かを購入する時もそうだし、手放す時もそうだ。自分の不利になることに対してなるべく距離を置き、得をすることに皆飛びついていく。損や得というものは時間が経ってから現れることが多い。人間はめんどくさいことから目を逸らしがちな生き物であるが、将来に対する損や得に関しては頭を使う。
物の価値や値段というのは私たちにとって理解しやすい数字で表されている。ブランド品を質屋に持っていけば鑑定士にその物の価値を分かりやすい金額で提示してもらえる。しかし私たちは物の価値以外にとても重要な価値を気にしている。それは自分自身の価値だ。
他人からの評価を気にするあまり、人前で必要以上に着飾っている人もいるのではないか?最近では、たった一つの過ちによっていつまで経っても拭いきれないレッテルを貼られてしまう人もいる。どんな人に対しても、そして、いかなる状況であれ礼儀正しく振る舞うことは人間としての価値を錆びつかせない行為なのだ。将来の得のために徳がたく生きる。今日もどこで誰に見られているかわからない。
人間の野生的観点
アフリカのサファリに住む野生動物たちは常に警戒を怠らない。水辺で水分を補給する時も睡眠を取る時も襲われた時のことを考えて体勢を整えている。野生動物にとって安心する時間は限りなく少なく常に不安と隣り合わせの生活なのだろう。
その点私たちは1日の中で安心で心穏やかな時間はたくさんある。穏やかな時間というのは無音に近い。ただぼーっと外の景色を眺めている時間を想像する。そのような時間は不思議と時計の針もゆっくりと進んでいるような感じがする。
穏やかな日常に慣れてしまった私たちに不安が襲ってくると、それまで見えていた景色は一変する。無音に近かった空間も騒々しくなる。じっとすることができず、動き回りそして言葉を発する。それら言動は不安を取り除くことに対してなんの役にも立たない。しかしこれが人間の本質であり、動物的な反応なのだろう。
常に警戒を怠らない野生動物たちがそうするように、私たち人間が不安と隣り合わせになった時に取る行動は忙しなく動き回り、喋り続けることなのだろう。
奇跡と可能性と私たち
自分の可能性についてどれだけ考えたことがあるだろうか?ある人は、生まれた瞬間にある程度の可能性が決まると言った。つまりは、裕福な家に生まれれば可能性が広がり、貧しい家に生まれれば可能性が狭まるということだ。
また、こんな考え方もよく聞く。運動神経や頭の良さは生まれた瞬間に決まっている。だから、将来スポーツ選手として活躍できる人はもともと運動神経がいい人。いい会社に入ってお金をたくさんもらえる人は生まれ持った頭の良さがある人。などがそれだ。
まぁ、なんとも悲しい思考である。現実的な考え方と捉えることもできるのだが、奇跡を信じない人はこの世の中をうまく生きていくことはできない。奇跡とは、もともと運動神経が悪い人がオリンピックで優勝することや、貧しい家に生まれた人が事業で成功を収め巨額の富を得ることなんて容易いことなのだ。
この世の中は常に奇跡によって成り立っている。歴史を振り返ってみても、私たち人間がどのようにして今の姿形、そして生活様式を確立していったのかは、明らかとなってはいない。ふとした時に、自分自身の存在の摩訶不思議に困惑することだってある。
それらすべては奇跡によってもたらされたものであり、その行く末を想像することは容易ではない。生命誕生から考えると私たちの一生は、限りなく一瞬の出来事でしかない。しかし、そこに埋まっている可能性は計り知れない奇跡を纏っている。
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