【独自感想】『笑うマトリョーシカ』早見 和真

小説

今回は小説『笑うマトリョーシカ』早見 和真(著)のご紹介!
帯にもある通り、TBSでドラマ化されている作品です。
『笑うマトリョーシカ』のタイトルに反して、表紙に写っている表情はどれも笑顔はありません。とても不気味ですよね。

書籍の情報を以下にまとめます▼

INFO
タイトル:『笑うマトリョーシカ』
著者:早見 和真
出版社:株式会社 文藝春秋
発売日:2024年6月
メモ:TBSでドラマ化

あらすじ

47歳で若き官房長官となり、総理への階段を駆け上がる男は、周囲を魅了する輝きを放っていた。「彼が誰かの操り人形だったら?」そう感じた女性記者が、背景を探ると、関係者の不審死、同級生の秘書や家族らの怪しい関係性が浮上しーーーーーーー。代議士を操ろうとする人物は誰なのか?心の闇に迫るミステリー長編。解説・中江有里

『笑うマトリョーシカ』裏表紙より

読書感想

完璧なまでに操られる能力

尊敬する人を思い浮かべたとき、何人の顔が浮かぶだろうか。多くの人の顔が浮かぶ人は、それだけ人との関わりを大切にしているか、あるいは影響を受けやすい性格なのかもしれない。人生の中で悩みに直面したとき、尊敬する人から助言を求めることはよくあることだ。そして、その助言は尊敬する相手だからこそ、素直に受け入れやすい。

しかし、実際には他人の意見を100%そのまま従うことは少ない。多くの場合、人は他人の意見を一つの参考として捉え、自分の考えを織り交ぜて最終的な答えを導き出す。

一方で、お節介な先輩や周囲の人々は、他人の意見を鵜呑みにするのではなく、自分の意見も持つべきだと強要してくることがある。社会的には、他人の意見に頼りすぎる人は、自立心に欠けると見られ、マイナスな評価を受けがちである。しかし、もしも頑固なまでに他人の意見に忠実に従い続ける人がいたとしたら、その人はある意味で非常に肝の座った人物とも言えるだろう。彼らは、あえて自分の人生を他人の意見に委ねているように見えるが、それも一つの生き方として認められるかもしれない。

モチベーションの拠り所を見失う

小学校時代に語る将来の夢は、ほとんどの場合、自分視点で描かれている。つまり、その夢を実現することで自分が幸せになるという構図である。しかし、年齢を重ねると、次第に「自分のために頑張ること」には限界があると感じ始めることがある。私の感覚では、この変化は30代から40代にかけて訪れることが多い。この時期になると、人は結婚を意識し始め、家庭を持つことで自分の仕事や行動が自然と家族のためにシフトしていく。

特に子供を持つと、人生のモチベーションがより子供のために集中し、自分のためではなく、他者のために努力する喜びや意味を見出すことが多い。20代の早い段階で結婚した人は、この変化をスムーズに受け入れ、自己中心的な視点から家族中心の視点に自然に移行できる。しかし、30代、40代になっても結婚していない人は、突然、自分の行動のモチベーションをどこに置けばよいのか悩むことがある。

このような状況では、社会的な期待や自己実現のバランスをどう取るかが課題となり、自分の立場や役割が不明確になることが多い。

「よそはよそ、うちはうち」と言ってくれるお母さん

「よそはよそ、うちはうち」という言葉は、子供の頃によく母親に言われたものであるが、実は大人になってもこの考え方は非常に役に立つ。現代はSNSが発達し、他人の言動が簡単に可視化される世の中となった。見たくもない情報が溢れ、その中には意識せずに見てしまうものも多い。このような状況では、他人と自分を比較しやすくなり、羨望の感情を抱きがちである。

しかし、SNSに投稿される情報は、発信者が意図的に選び抜いた「作品」ともいえるものだ。つまり、その情報は奇跡的な瞬間を切り取ったに過ぎず、そんな瞬間と自分の日常を比較しても意味がない。他人への羨望は、プラスに働くことはほとんどない。なぜなら、羨望を前向きな材料に変えるスキルを持つ人は少なく、多くの場合、羨望は嫉妬へと変わり、負の感情を生むだけだからである。

SNSの発展により、他人との比較が当たり前になった現代社会において、母親が言った「よそはよそ、うちはうち」という言葉の重要性が再認識されるべきである。この言葉は、自分の生活や価値観をしっかりと見つめ、他人と比較することなく、自分の人生を大切にする姿勢を教えてくれる。今の時代だからこそ、このシンプルな言葉が心の支えとして必要なのかもしれない。

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